激動の時代をくぐり抜けた建設業界

全国連合兼喜会が結成されてからの建設業界の動きを追ってみますと、昭和30年代(1955〜64)は、神武景気、岩戸景気に象徴されるように、日本経済は比類のない勢いで成長を遂げ、民間設備投資が大幅に増加し、公共投資も産業基盤整備のために道路、鉄道、港湾などを中心に増加して、建設業界の躍進は全産業の中でも際立っていました。こうした急激な変化にともない、それに対応していくには、企業経営の改善、技術革新が緊急の課題でもありました。昭和40年代(1965〜74)は、東京オリンピックのあと、一時停滞した局面もありましたが、日本列島改造論などの刺激を受けて第2次高度成長期を迎え、建設業界は再び活況を呈しました。建設作業者の数が足りなくなり、人手不足による作業者の疲弊、未熟練者の就労による労働災害が多発したのもこの時期でした。昭和48年(1973)、第4次中東戦争が起こると、アラブ産油国の石油戦略によって、世界的に諸物価の高騰する、いわゆるオイルショックが起こり、日本も物価鎮静のため強力な総需要抑制策を実施しました。この結果、景気は一転して深刻な状況に陥り、生産能力が一挙に過剰となって、民間設備投資は激減し、公共投資の繰り延べとあいまって建設需要は大幅に落ち込みました。昭和50年代(1975〜84)に入っても、オイルショックによる影響が続いたため、総合建設会社は経営の拡大指向に別れを告げ、量より質に徹し、厳しい経済情勢に耐えうる体質づくりへと方向を転換しました。“建設冬の時代”と呼ばれたのも、この年代の後半です。その後、昭和60年(1985)のプラザ合意に基づく政府の内需拡大政策により、建設投資額は80兆円を超え、建設業界は空前の活況期を経験しました。ところが、昭和64年(1989)、昭和天皇崩御と共に平成へと年号が変わったのち、日本経済は急激に失速、バブルははじけ飛び、好景気は終焉を迎えました。現在の建設業界は、このバブル崩壊の後遺症のために厳冬の時代と言われるほどの苦境にさらされることになり、他の業界以上に抜本的な変革が強く求められています。