信頼の絆の原点

兼喜会の歴史をひもとく前に、日本の建設産業の生産の仕組みについてふれておきます。建造物をつくる際には、通常、総合建設会社(元請)が、特殊技能を持つ多数の職種別専門工事会社(下請)をまとめ、ひとつの工事を行います。この両者が、いかにうまく組み合わさり、持てる能力を発揮できるかによって建造物をつくり上げる際の生産性が違ってきますし、もちろん建造物の品質も変わってきます。建設生産がこのような仕組みとなっているため、総合建設会社は信頼のおける専門工事会社を育てようと努め、また専門工事会社も信頼できる総合建設会社の傘下での仕事を求めます。その結果、相互の信頼関係を大切にする建設業では当然のように協力会社組織が発生することになり、そしてこの協力関係の濃淡が企業グループの優劣に大きな影響を与えるのです。  
今をさかのぼること110年ほど前、社会情勢の変化からいち早く一式請負を目指した当時の清水方は直属の優秀な諸職方を育てる必要を感じ、明治22年(1889)に店員と職方で組織していた「 (カネキ)工商会 」を母体として、明治24年(1891)頃「匠友会」(大工のみ)と「清水方諸方組合」(大工を除く)の二つの団体をつくりました。この頃は、経済的な利益ばかりでなく、棟梁と弟子という縁があって結ばれた仲との意識お互いにあり、厳しい指導の中にも家庭的な結びつきが強く、その絆は極めて太いものでした。清水建設と兼喜会の信頼の絆の原点はここにあります。
昭和4年(1929)、匠友会と清水組本店諸方組合(清水方諸方組合が改名)は合併し、「清水組本店職方組合」( (カネキ)会 とも呼んだ)を設立。当初は非公式の団体でしたが、昭和9年(1934)には協力会としてその活動が清水組に認められるようになり、正式に「兼喜会」という名称を名乗るようになりました。
 全国各支店にもこれ以前から協力会・親睦団体が存在し、それぞれに歴史を持っていましたが、昭和11年(1936)、当時の清水釘吉社長から、支店にも兼喜会をつくるようにとの通達があり、従来の団体の認知、あるいは新規の結成により、各地の団体は兼喜会の名称のもとに活動を始めました。その後、第二次世界大戦を経て、終戦の時期まで数々の制限を受けながらも兼喜会の活動は続けられましたが、昭和22年(1947)、職業安定法によって、作業者の供給事業が否定されたために、清水建設は直傭制度(作業員の直接雇用を行うこと)をとることになり、本・支店の兼喜会も解散せざるをえなくなりました。しかし、昭和27年(1952)、同法の改正によって、広範囲の手間請負が認められるようになり、清水建設の直傭制度廃止とともに、厳選された会員による新しい兼喜会が復活しました。
 新生なった兼喜会各支店では、支部単位で経営の合理化、労務管理の改善、技術の向上、災害の撲滅のために、会員の指導・支援にあたりました。時あたかも高度成長期に入り、清水建設では、新時代に対する経営の見直し、新技術・新工法の開発が行われましたが、同時に兼喜会に対しても近代化を進めるようにとの方向が示されました。兼喜会はこれを受けて、全国の会員が共通の認識をもって活動を推進し、清水建設の躍進に貢献できる日本一の協力会組織をつくろうと、東京、名古屋、大阪、広島、四国、九州、北陸、仙台、北海道の9支部、会員数988社によって「全国連合兼喜会」を昭和35年(1960)に結成したのです。